長浜の盆梅の歴史
盆梅と高山七蔵
若い頃から養蚕業を営む
春、湖北の野から東を望むと、伊吹山の北に雪を抱いた双耳峰の山が見える。県下第二の高峰金糞岳である。伊吹山が春の装いになっても、この山には雪が残っていることが多い。
雪深い山ゆえに、金糞岳を源とする草野川は水が豊かだ。草野川の上流にある地域を上草野という。盆梅は、その最奥の村である高山(現長浜市高山町)で生まれた。
大正時代が始まった頃の話である。高山に住む高山七蔵は、若い頃から規模の大きな養蚕業を営み、初夏の繁忙期には、遠く岐阜から何人もの人を雇ったという村随一の農家だった。
農業以外にも、新たな事業を興すことに熱心で、それは趣味の分野でも同じだった。大きな梅を鉢植えにして楽しむという、独創的ともいえる趣味に生涯をかけたのである。 金糞岳の山中に、夫婦滝という清流の流れ落ちる滝がある。高山から山道を歩いて一時間ほどの所にある。七蔵の家は、代々、夫婦滝の下流に広がる滝谷と呼ばれる地に山林と畑を持っていた。
四十年近く育てた盆梅を寄付
当時、山や畑には必ず梅の木が植えられた。梅干が、外での仕事に欠かせない保存食だったからだ。毎年、七蔵は滝谷に入って枝振りの良い梅の古木を掘り起こし、荷車やモッコで運んで家へ持ち帰った。
それらを大きな鉢に植え、丹精込めて世話をしたのである。
春になると、七蔵はそのようにして数十鉢にまで増えた盆梅を家の玄関の両側に並べて楽しんだ。その作業は、たくさんの人を雇っての大がかりなものだったという。
そして花の見ごろになると、多くの人たちの観覧に供した。風流な傑物だったといえよう。戦前には上草野村の村長を務め、戦後は浅井町の議会議員を務めている。
戦後の昭和二十六年、七蔵は四十年近くにわたって育てた盆梅四十鉢を長浜市へ寄付する。七蔵六十六歳のときである。当時の寺本太十郎長浜市長の懇請に応えたものだが、すべての鉢を寄付するといったところも、七蔵の潔い性格を表している。
寄付後も盆梅育成を指導
寄付を受けた翌昭和二十七年の早春、慶雲館で盆梅展が始められた。湖北の春にふさわしい魅力のある催しは、多くの観光関係者を喜ばせた。しかし梅は生きものである。
水や肥料やりだけでなく、剪定や植え替えなど日常の世話が欠かせない。七蔵は、長浜市へ寄付した後も、長浜のまちに泊まり込み、盆梅育成の指導をすることがたびたびだったという。
高山では、七蔵の妹ことめさんの嫁ぎ先である高山重左宅でも盆梅を育てた。七蔵の影響があったのだろう。重左夫婦も長年にわたって盆梅を育て、平成元年には長浜市へ五十鉢ほどの盆梅を寄付している。
さらに最近では、平成十九年、重左の長男重彦氏が五十四鉢の盆梅を長浜市へ寄付された。
七蔵は、晩年、長男の住む京都に移り住み、昭和四十二年に京都で亡くなっている。享年八十二歳だった。その七年後、村の人たちによって、生家の近くに七蔵を記念する公園が生まれている。
「七蔵公園」と名づけられた小さな公園である。
盆梅という言葉は、春の季語になっている。昔から梅盆栽として親しまれてきたのだろうが、人の背丈を越すほどの鉢植えの梅の世界、今日の盆梅は、高山七蔵が始めたものに違いない。